世の中が移ろい行く様を他人事のように傍観していると、時の流れの速さというものを実感せずにはいられない。
自分が子供の頃には夢物語だったことが、今や現実のものとして目の前にあると、時の流れが加速度的に速まり、「あんなことイイな、できたらイイな!」ってことがすでに過去のものとして「.....あるよ。」って言われそうで何だか怖い。
昔描いた未来は確実に、でもボクが想像していたよりも速いスピードで近づきつつあるらしい。
世の中は本当に変わった。
人々の生活はより便利に、より簡単に、より快適なものへとどんどん変化していく。
そこにむかし見たはずの街の風景は、面影すら感じられない。
懐古趣味的なものはいつの間にやら何処かへと放り出され、「新しいものこそが正義」「革新こそ人類が生きる証」と言わんが如く、次から次へとイノベーティブなソリューションがサジェストされる。
自分はどうだろうか。
以前に比べて変わったのか?
ちゃんと日々の経験を糧として、着実な進歩を遂げているのだろうか?
ただ単に惰性に流されて漠然と無為な時間を過ごしていやしないだろうか。
「大人になった」とひと言では片付けられないものもある。
昔の自分が今の己の体たらくを嘆いている気がしないでもない。
少しは自身の成長のようなものを感じる一方で、諦めに似た挫折感に気づかされる場面も多々ある。
昔の自分が今の現実を見たら、なんて言うんだろう?
きっと嘆くに違いない。
「こんなはずじゃなかったのに」と。
人の記憶というものは自分に都合のいいように捏造されるように出来ているみたいだ。
己のミスを省みず、ただひたすら自己肯定に走る輩が多いことは、昨今のニュースを見ても明らかだ。
他人の批判に耳を貸さず、ただ妄信的にひたすら己の道を突き進む厚顔無恥な態度は嘲笑の的にはなれど、それを彼ら彼女らに自覚させるには至らないらしい。
謝罪らしい謝罪もしていないのに、今日も平気な顔して批判的な妄言を繰り出すことに精を出す。
きっと頭の中では過去の過ちはたちまち捏造され、自分の都合のいい美談にでもすり替えらているに違いない。
なんて便利な人格なんだろう。
意識だけが高いボクやワタシは、他人を見下すことと誇大広告的な自己顕示で大忙し。
客観性が微塵も感じられないカタカナだらけの自称の肩書きを名乗り、何処に向かうんだか解らない新たに作り上げた道の第一人者を装う。
セルフブランディングと呼ばれる宣伝活動に躍起になって、ひとり悦に入って己の心を満たさている。
もはやそれがよくある芸のひとつと社会に認識されており、世間からは嘲笑の的としてされていることに本人が気づいてすらいないから、より一層その芸にも磨きがかかるってなもんだ。
あぁ面白い、もっとやれ!
一応名前は売れたからと、ようやくセミナーという名の飲み会みたいな会合の開催にも漕ぎ着けた。
出席者の大半は熱狂的かつ妄信的な信者と思しき身内ばかりだけど、たまたま紛れ込んだカモを肴に本日も大いに盛り上ろうではありませんか。
ちょっと前まで大人は「この現実の世の中で起きていることはゲームじゃないんだ。リセットなんて効かないんだぞ?」って子供たちに偉そうに説教してたような気がする。
それが今じゃどうだ。
炎上の発端となったTweetやブログは、問題が勃発したと判断されるやいなや、ただちに削除されて、何もなかったことにされているじゃないか。
随分と大人ってのは便利な輩が多いんだな。
でも魚拓があちらこちらに残っているから、そんな簡単になかったことには出来ないんだけどね。
残念でした。
「地図に残る仕事をしよう」とか「途上国の発展に寄与して彼の国の生活文化の向上に資するべし」とか「国を動かして世の中を変えてやるんだっ!」ってな大きなことを曰う僕は、ただの一介のサラリーマン。
「ちまちま小さくまとまってないで、もっと大きな仕事をしようぜっ!」とか威勢のいいことを大声で叫んじゃったりもするけれど、所詮はただの歯車だったりする。
職場じゃ上司にも先輩には怒られてばかりで、裏で職場を仕切っている御局様にも頭が上がらない。
でもいいんだ。
いつか大きなプロジェクトを率いて、世の中をあっと言わせてやるんだから......という夢だけはよく見るんだけど、一朝一夕にはそう上手くはいかないよね。
とりあえず、何も知らない学生たちや企業名だけを目当てに群がってくる女どもには、頭の中だけで展開される壮大な夢物語を語ってやることにしよう。
ちょっと小難しいカタカナを使って話をすれば、たちまち仕事ができる風を装うことなんて簡単なんだから。
現実の厳しさを教えるなんて酷いことはできないしね。
きっと、自分では気づいていないんだろうな、その分厚い面の皮のこと。
「ああはなりたくないものだ」「ああなったらお終いだ」っていう典型例のオンパレードだ。
周囲の人たちが諭しても耳を貸さないくらい、自己陶酔に没頭しているのかもしれない。
いや、そもそも同じ価値観を持つ者同士の寄り合い所帯にしか近寄らないから、自分たちの愚かさに気づいて諭す者すらいないのだろう。
何とかにつける薬はもはやどこの薬局にも置いてないだろうから、いっそ放置プレーでいいんじゃないか。
あぁ、面倒くさい。
結局のところ、人はみな自分勝手で、途轍もなくわがままな生き物なんだ。
自分の都合で生き、自分の思い描く未来しか信じていない。
その夢の実現のために誰かが犠牲になろうが、そんなの知ったこっちゃない。
昨日の仲間は今日の敵、しのぎを削り、互いのHPを奪い合う。
共倒れになるなんてその時には少しも思いはしない。
その発言に確かな根拠があろうがなかろうが、声の大きい者が優遇される。
まさに言ったもん勝ちの世界。
決して表面的には現れることのない裏で繰り広げられる静かな暴力が蔓延ることが、暗黙の了解として平然と許されている。
正直者が馬鹿を見るのは当たり前。
世の流れに乗り遅れた愚か者は、他者の糧とならざるを得ない。
その運命から逃れるのはなかなか至難の業だ。
人一倍の努力をしようが、身を粉にして働こうが、ただ漠然と生きていたら、あらかじめ予定されていた身の丈にあった配分しかその手にすることが出来ないだろう。
現実ってのは、そんな世知辛いものなのさ。
そう言ってはみたものの、果たして自分はどうなのだろうか?
己のこれまでの所業を思い返してみると、少しだけ不安になる時がある。
病的に他者の評価を気にする臆病な小心者にありがちな、実際にはありもしない切迫感や緊張感に似たナルシスティックな感覚が、忘れた頃に不意に襲いかかってくるんだ。
そのたびに独りで悩んで、独りで消化して、いつの間にやら自己解決する......これを永遠に繰り返すただの暇人、それが僕が志した生き方だったんだっけか。
目立つから注目される。
飛び出るから杭も叩かれる。
雉も鳴かずば撃たれまい。
少し黙って大人しくしてみるか。
いきなり舞台に押し上げられても、何もご披露する芸など持ち合わせちゃおりませんから、どうか僕のことはそうっとしておいて下さいませんか。
放っておいていただいても構いません。
えぇ、忘れて下さって結構ですから。
何も考えず、無条件に周囲と同調し、顔を持たないエキストラの「通行人A」として生きる方がいっそのこと悩まずに済むんじゃないだろうか。
何も望まないし、何も主張しない。
ただそこに存在するだけで、別にいてもいなくても構わない。
そんな道端の石ころみたいな存在になり果ててみるのはどうだろう?
心の中で「そんな端役を演じる者も世の中には必要なんだ」と自分に言い聞かせ、所詮はその程度が身の丈に合った生き方だと納得しさえすれば、そうして生きる方がよっぽど楽なんじゃないだろうか。
人と対峙してぶつかり合うにも、それなりにエネルギーが必要だし、相手の力量とかそんなこと考えている暇なんてない。
いつだって敵はいきなり襲いかかって来るから、心に余裕を持って生きるなんて無理。
いつも自分が勝てる勝負ばかりとは限らないし、負けて大事な何かを奪い取られてしまうんだったら、いっそのこと大事なものなど持たずに生きる方がましだ。
他人と争い諍い合うなんて、何だかものすごく疲れそう。何だか嫌だな、それって。
他人と争うことがなければ、何も増えないし何も減らない。
何も変わらないのが「平和」なんじゃないかとすら思えてくる。
手傷を負うことを少しでも恐れるならば、目立たず騒がず驕り高ぶることもなく、この世の傍観者として生きる道を目指そう。
世界の果てから愚かな者どもが飽きもせず繰り返す騒乱を、高みの見物よろしく覗き見していた方がよっぽど楽しいんじゃないか。
次々と繰り出されるくだらないやり取りは一種のエンターテイメント。
身体を張った芸だと思えば、これほど笑える話もそうそうないだろう。
この世の中から隔絶された液晶画面の向こう側に存在する異世界の住人となり、そこで僕は王を目指せばいいのさ。
家来は1人もいないし爺やもいないから、何から何まで自分でやらなきゃならないから少ししんどいけど、それでも僕は自由だ。
さあ、くだらないこの世の中には見切りをつけて、誰にも干渉されない自分だけの世界へと引き篭ろう。
(おわり)
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