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2014年1月31日金曜日

699:【戯れ言】自立(自律)するということ......とは?の巻

年が明けて間もない頃、巷間で「自立」とか「自律」とかの話が盛り上がっていた(炎上してた?)みたいなので、そんなテーマで散文を書いてみようかと思ったものの、結局この原稿を書き進めていく過程において頭の中にある色んな考えをまとめようと思っていたらかなりの時間を要することとなり、すでに1月も終わろうとしてる時期にになってしまった。

最初からそんな予感(推敲にかなりの時間を要するだろうという推測)がしていたのも確かだ。

何度も何度も書き足したり削ったりしているうちに、当初目指していた方向から大きく外れるなんてことはブログを書いていると日常茶飯事なのであるが、そういう意味でも今回のテーマはかなり厄介な代物だった。

結論は決まっている。あとはそれを補強するだけの材料を揃えて用意された皿の上にパラパラと散りばめればイイだけの話なのだが、途中で結論へと向かう道程から外れてしまうことも多々あり、これがかなり難しい作業だった。

それでも、この原稿を書くことで自分自身の考えや方向性をかなり整理できた。決して他人や世間様に御披露目するような内容ではないものの、あえてここに公開させていただくことにする。

週末かつ月末で忙しい方も多かろうと思うが、時間に余裕のある方は暇潰しにでもお付き合いいただければ幸甚である。


少し前(2013年残暑厳しい頃)にこんなモノを拝見し、「これは至極名言である!」と思わずTwitterやらFacebookで拡散してしまったという出来事があった。

[名言] 孤独に強い人とは、人や社会との関係を積極的に保ちながら、ほかに支配されず、自由な自分を保てる人ということです。言いかえれば、「自律」できている人ということです [名言コツコツ]
今回のテーマが「自立」「自律」に関する話なので、まずはこの名言をご紹介させていただく。

なんでこの名言に辿り着いたのかはスッカリ忘れていたのだが、以前にも一度このブログで取り上げさせていただいたことがあったことを検索して初めて思い出した。

真☆煩悩の赴くままに: 614:大事なのは得られた情報の真贋を見極める目利きのような洞察力(まとめ)の巻
手前味噌ながら、このエントリーの最後の方で一度ご紹介していた。

そう。ボクはこれまでの自分の生き方を振り返り、そこにあった紆余曲折や変節を一つ一つ確認しながら、この名言にあるような生き方を理想として目指してきた節があると、そう思ったのだ。

いま現在この通りに生きることが出来ているかは自信がないが、少なくとも最近のボクは孤独を恐れなくなってきている。他人の言動に即座に反応するも、その影響を不用意かつ無防備に素直に咀嚼することなどせず、それが自分にとって相応しいのかどうかを吟味する過程を厭わずに行うことが出来ているように思う。

結果的に、それを受け入れなかったことによりメインストリームから外れようとも、決して後悔することはない。自分で自分の首を絞めていると理解しつつも、それ以上に他人は他人と割り切って長い物にも巻かれなかった自分を褒めてやりたくなるのだ。

今もまさにその心境であり、「孤独な戦いの渦中に自らを投じ、色んな事を吸収しつつも、我を忘れることなく、己の思うままに自由に振る舞う」ということこそが、自立(自律)するというとだと信じて疑わないボクがいるのだ。


他からの影響を受けつつも自分らしくある生き方とは、己の中にある一本筋の通った軸みたいなものを常に意識し、そこから大きくブレることのないようにすることが大切だと信じている。

他人の言動や行動の中から「これはイイ!」と思った事は積極的に試し、自分に相応しいとか運用が煩雑でないとかかなりの労力をもって試行錯誤する。その時々の判断にて、自分自身に合うと解ればそれを取り入れるけれども、多少の無理を承知でリスクを冒しながら受け入れるということはなく、自分に合わなければ惜しげも無く捨てる勇気を持ち合わせ、その己の中心軸を徐々により太い幹にするという生き方。それこそが理想だと信じて疑わない。

自分にとって譲れないところは絶対に譲らない、その確固たる覚悟と強い意思が必要だ。

例えその道の達人とも言える方の発言であろうとも、その道の第一人者と言われる人に勧められようとも、まかり間違っても何も考えずに日和って同じ道に行ってはいけないことを知っている。自分自身の本音をひた隠し、己の心を偽り、周りに巻き込まれながら仕方なくその道を行ったとしても、残るのは後悔だけだからだ。

こんな生き方を誰かに勧めようとしているのではない。あえてそれを他人に強要するようはお節介な行動は極力慎みたいのだ。所詮素人に毛の生えた程度のブログであるから、こんな信憑性に乏しい内容を鵜呑みにするアホはいないと思うが、あえて断っておくことにする。

と言いつつ、こんなテーマでブログを書いてるのはどうなんだ?ってな話でもあるのだが。

齢40を過ぎて未だにチャラチャラしとるのもおかしかろうと。次から次へと提示される意見を鵜呑みにし、彼方の花から此方の花へ......なんてやってる場合じゃないのだ。

いや、別に年齢でいくつになったら軽薄ではいけないという法律があるわけでもないし、ましてや経験値がいくつ貯まったらレベルアップするという話でもないことは理解している。

「日々是成長、日々是勉強」大いに結構。生涯いち生徒、生涯学び続けるでも構わないが、貴方は何処に向かおうとしているのか、その到達点は何処にあってそれが本当に理想なのか?を時々確認してみた方がイイんじゃなかろうか。 どんなにその方面の知識を密に集積させたとしても、世の中は常に動き変化していくものだから、いつの時にも終わりなき旅の途中であることに変わりはないのだ。

そのような変化に柔軟に対応すること、ボクの好きな四字熟語でもある「臨機応変」さが求められるのは、時代だとか年齢などという尺度で決められるものでもない。そういうことを話しているのではなく、その提示を受け入れる際にそれが自分にとって本当に必要なものだとその時々でキチンと理解する努力をしてますか?ってことが大事であるという話をしたいのだ。

実際に皆さんの目にボクがどのように映っているのかは知る由もないが、普段はチャラチャラしたような文体を使ってはいるものの、実際にはかなり頑固で意固地な40代半ばのおっさんである。

Twitterで知り合った飲み仲間からは、一緒に仕事はしたくないタイプだと思われてるんじゃないかと感じており、たぶんその予想は大方あっている。非常に残念な話ではあるのだが。

仕事というシビアで真剣勝負な世界での妥協は許し難いことではあるものの、それはそれとして世間とか社会とかお客様とか周囲の人たちとかと上手く折り合って生きていかなければならない世界であるから、譲る時には譲るのが当たり前。ただ、それが相手に当然として受け止められると、「だからお前は何も解ってないんだ!」と瞬時に鬼神と化してしまったりするのだ。ましてやその提示された内容が愚劣なものであるとするならば、先輩だろうが上司だろうが見境なしに論破する事を繰り返してきており、その反省なんて一切したことがないんだから、サラリーマン向きではないのかもしれない。

それが己に正直な生き方だと信じているから成せるワザだと思っている。


好きなものにはトコトン愛情を注ぎ、嫌いなものにはいち早く蓋をしてガムテープでグルグル巻きにしてゴミ箱にポイっと捨てるだけじゃ飽き足らず「お前なんか嫌いだ!ばーかバーカ!」と必要以上に罵った挙句にその存在自体を真っ向から否定するタイプ。

そりゃあ波風も立つし時には暴風雨にもなるので、こんな生き様はあまりオススメは出来ない。

もちろん「好き」と「嫌い」しかないデジタルな考え方ではなく、「どっちかと言うと嫌い」とか「ちょっと好きかも♡」という中途半端な存在も認める度量くらいは持ち合わせて入るつもりだ。

それでも「来る者は拒まず」と「去る者は追わず」が常にセット販売になっており、所詮他人同士が心の底から分かり合えるなんてファンタジックな世界なんてこの世の中にはありゃあしないと見限り、ハスに構えてイジけてる生き方とでも言うんだろうか。

いや、そこまで自虐的になる必要はないか。

要するに、自分の信念はちょっとやそっとじゃ曲げない=他人の言動や行動を簡単に信じることが出来ない類の人間であって、きっと人としてはかなり致命的な欠陥を持っているんじゃないか?とも思っている。

他人の影響を受けやすいタイプではあるものの、それを真に受けて失敗したことも数え切れないし、そういった教訓を活かして何でも一度自分で実践して試してみなければ気が済まない厄介で面倒クサいタチでもあるのだ。

こうなってしまったのも、若かりし頃にこの本を読んだ影響があるということは否定できない。

多感な時期だったし、まだまだ幼かったので多少の誤読があるんじゃないかとも思うのだが、コイツの影響が大きいと今でも思っている。

誤解を恐れずに簡潔に結論を申し上げると、所詮人間同士は互いに互いの幻想を抱いているだけで、相手の真の姿を垣間見る事も完全に解り合えることもあるはずがないということなんだな。

「あなたは隣にいるその人の考えを寸分違わずに理解できてますか?」という問いに対して、自信を持って「はい!」と答えるのは、能天気で何も考えていない輩の仕業に違いないのだ。

そういうヤツは自分の頭の中に都合の良い理想郷を構築し、それと波長の合う世界には最大限の賛辞を送りつつ歓迎し、その逆を行く人や考えは完全に無視を決め込んで無かったことにするか、失望して落ち込むか、それだけじゃ物足りず説得して考えを改めさせようとしたり、こちら側に誘おうとしたりと、当の本人から見ると頼んでもいないのに厄介なお世話を焼きたがるものなのだ。

それでその試みが全て上手く行くかと言うと、そんなはずもなくて、 結局は同じ波長の者同士が寄り合い所帯を作って、自分たちの正当性を尊重し合うだけの、互いの傷を舐め合うような小さなコミュニティーの殻に閉じこもりがちになったりしないのだろうか。

もちろん、ステレオタイプ的に「人は所詮解り合うことのない孤独な存在だから独りで生きて行く」なんて極論を言うつもりはない。この世に生きるならばそんなのはハナから無理であるのは先般承知、「人は必ず理解し合える」っていう対極の理想と同じくあり得ない話なのだから。要するに、そのどちらもあり得ないってことだ。そんなご都合主義的な理想郷なんて何処にもありゃしないっていう現実を、その曇りガチな両のまなこでしっかりと見据えてやったらどうだろう?

要はバランスの問題。

最初に紹介した名言を逆説的に辿ると、周囲の人たちや社会と積極的に交流しつつも、己の中にある軸=ポリシーみたいなものを守り、全てが他人の色に染まることで己を無くしてしまうような生き方はしたくないということなのだ。

もちろん、まだ軸が定まりきっていない初期の成長段階において、色んな見識を吸収しながら幹を太くして行く必要があるだろうし、それほど幹の太さにこだわらず柔軟性に重きを置く生き方だってイイとは思う。それまでに築き上げた己の軸を全て否定してしまうような衝撃的な出会いや出来事が待ち受けているやもしれないし、それは誰にも判らない。

ただ、少しでも己の信念に自負するものがあるのであれば、他人の様々な意見にはおいそれと一喜一憂することなどなく、軽薄でミーハーでのべつまくなしな行動は慎みたいと、そう40代も半ばにさしかかろうとするおっさんは考えているのだ。

万事が万事そんな調子なもんだから、かなり慎重で緊張感のある生き方を強いられる場面も多い。「石橋を叩いて渡る」どころか「石橋を叩き過ぎて壊して渡れない」なんてこともしばしば。

まぁ、それはそれでイイじゃないかと。自分が納得できてるのであれば。

そんな面倒くさい回り道でもしながら、誰もが生き急ぐこの世の中を我を忘れることなく、自分の心にだけは素直に生きて行こうじゃないかと、そう考えている次第である。

「誰かに認めてもらいたい」と他人に承認されることを期待するならば、その認めようとしている他人にとってそれなりに価値のある人間になることがまず必要で、それがかの名言にあるような「自律できている人」なんじゃないだろうか?

ま、別にここで認めてもらおうなんて大それた事は最初から考えてないし、期待などしちゃいないんだがね。

(おわり)

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