今日のお題はこちら。
なぜそんなに繋がろうとするのか(前編) – U-Site
こちらが前編。
なぜそんなに繋がろうとするのか(後編) – U-Site
そして二日後に公開されたこちらが後編。
実は前編から後編へはリンク先からも繋がっているので、あえて前後編のリンクを分けて二つも貼る必要はなかったんだが、まぁいいか。
先程の著者である黒須教授(※)は、これだけ流行っているSNSだか、そこでのやり取りは果たして本当のコミュニケーションと呼べるのだろうか?ということを心配なさっていらっしゃる。
※黒須教授についてはこちら↓をご参照下さい。
黒須正明 - Wikipedia
別に知り合いでも何でもなくて、ボクも今回初めて知った方です。
特に匿名の者同士がさも親しげに会話をする場面などは、いったいどのような目的で見ず知らずの者同士でその話題について話をしているのか不思議に思うこともままある。
しかも、そうしてSNSでは繋がった者同士ではあるものの、物理的な距離の制約や本人が望まないなどの理由により、決してリアルに繋がる事を是としているワケでもない。
もちろん、積極的にリアル世界でも「オフ会」と称したリアルなコミュニティを築き更なる深いコミュニケーションを図ろうとする活発な方もいるし、どんなに望んでも決してリアルには出会うことすら叶わない方もいるワケで、それらは総じて奇妙な関係性をバーチャルに構築することを起点としており、以降それが特に問題なく維持・継続されている場合が多いから不思議である。
例えば、SNSで何気ない一言を投じたとしよう。その一言に対して、意図せず何らかの反応があった場合、どんな反応を示すだろうか?
望んではいなかった突然の返答にに対して、無条件に反射してしまうのはよくある話で、それが「このコミュニケーションを成立させるために返信しなければならない」という強迫観念によるものなのか、はたまた反応してくれた行為そのものに対する礼儀としての連鎖なのかは、その時その人の価値観によって反応の主因は変わってくる。
当然ながら、せっかくの反応に対してダンマリを決め込みスルーするなんてのも全然アリの世界。
SNSの世界においては、それぞれの価値観に基づき自らの立ち位置を決めてよいルールが当然であるがごとく成立しており、誰と繋がろうが繋がるまいが問題はなく、何の目的でこの世界に生息しているのかを画一的に定義付けることは困難である。
しかも互いに交わる可能性がそれぞれの価値観により異なるため、求めるコミュニケーションの密度が当初から異なるのは当たり前の話。SNSとはそんな不確実性の高い参加者が行き交い彷徨する場であることは確かであり、そこに平然と生息し続けている連中も決して常に繋がることを意図してこの世界に足を踏み入れたワケでもなさそうだ。
このような不確実で変動要素の大きい関係性をもってして、「SNSのやり取りが本来的なリアルな双方向コミュニケーションと同等か?」といわれると、少し考えてしまわざるを得ないのは当然の帰結である。
小難しく考えずに、まずは自分の場合に当てはめて考えてみることにしよう。
以前にも書いたが、ボクのSNSにおける主戦場はTwitterである。
ここでもボクは匿名で活動をしており、気が向いた時にだけその場に居合わせた方々と他愛もない会話をさせていただいている。
リアル世界で生きる自分を決して曝け出すこともなく、終始バーチャルなキャラクターを演じていると言っても過言ではない。虚飾に塗れたもう一人の自分をTwitterの世界に送り込んだのか、はたまた心の奥底に眠る煩悩を解き放ったのか、それは今でも定かではない。
おそらく自分でもよく理解していないのだよ、自分自身というものを。困った話だ。
大層高尚な意図などあるはずもなく、ただ単にSNSの世界に興味を抱いたミーハーなおっさんが人知れず迷い込んでしまっただけであるが、それでもこの世界にドップリと嵌まりこんでしまったのは、その後に訪れたバーチャルからリアルな関係への転換を経験してしまったせいであろう。
年齢も性別も職業も解らぬ者同士が一同に会し、Twitterのタイムライン上で繰り広げられるそれと同等な、それほど意味も価値も持たない会話に明け暮れる快感。幸いにもオヤジ狩りに会うこともなく、その後も継続して不思議な関係を維持できている。それが初めて体験した「オフ会」から始まる奇妙な関係性だったボクは、きっと幸せ者なのかもしれない。
それは、久しく経験したことのなかった「利害のない素のままの関係性を構築する行為」の再現であった。
かつて幼少期にのみ体験した、あの「友達」に似た関係を再び体験することの喜び。
そこにはまさに「双方向のコミュニケーション」が成立しており、リアルにもバーチャルにも繋がる関係を築けたことは、ボク自身にとってもかけがえのない宝物になっている。
一方で、FacebookはTwitterとは異なる世界だと思っている。
実名を名乗る時点でどうしても構えてしまいがちになることもその理由の一端であるが、そのせいかボクの場合は、Facebookで繋がる者は意図してリアルな関係性の再構築のみに留まっている。要するに以前からリアル世界で繋がっている昔馴染みの集まる同窓会のような世界になってしまっているということだ。
「そんな使い方は勿体無い」と諭されたこともあったが、今ではそんな限定的で無難なコミュニティにしておいて良かったと思っている。
オフ会などで出会ったTwitterの知り合いも多くいるが、その他には学生時代からの古い友人や会社関係で現在進行形で繋がる者も同時に存在する、極めて現実を色濃く反映し凝縮したような世界だ。
その場合、どうしても「リアル世界での互いの関係性」を強く意識した発言になってしまいがちになる。素のままの自分を曝け出すなどもってのほか、少し気取ったシャレの効いたネタなどをご披露せずにはいられない。
ボクに無言の圧力と多少の無理を強いるのが、このFacebookの世界。
双方向に会話を展開できないことはないが、それが長続きすることも少ない。決して濃くはない関係性を、ただそれ以上色褪せないようにと維持するためだけの装置。
それがボクにとってのFacebookであり、自ずとその活動量は減退気味とならざるを得ない。
Facebookでのボクは、紳士的で大人らしい普通の面白くないおっさんそのもので、突出することもなけりゃ影に隠れて何かを画策するワケでもない。
自ずと足が遠ざかり顔を出す機会も少なくなるのは、致し方ない事実なのである。
TwitterやFacebookとも違う、SNSではないが「ブログを書く自分」という世界がボクにはある。
一方的に闇夜に語りかけるその行為は、虚しさに如何に耐えるかを競う修行のようなものであり、ボク自身はこの世界における他者とのコミュニケーションを積極的には望んではいないことが最近解り始めてきた。
「他のブロガーとは異なる」と散々断ってきたのは、まさにこの点に集約される。
自らの主張を広く世間に知らしめんがために書いているのとも違う。また、どのような反応が起きるかを期待して文章を綴っているワケでもない。
ボクにとっての「ブログを書く」という行為は、内なる自分の解放とそれを現実として自らが受け止めるための、完全に自己完結した利己的な行為に他ならない。
自己満足を満たすだけの行為そのものだ。
心の奥底に積もりに積もった淀んだ澱を一旦吐き出し、それを現実のものとして咀嚼し自ら確認することで初めて、自分というものがどのような存在であるのかを知るという、なんともまぁ面倒臭い人間なのである。
まぁ仕方がないじゃないか。自分で自分の深層心理を確認する手段が他には思いつかないのだから。
各方面からインプットされる情報を噛み砕き、自分の身体の一部として再構築し、それを文章という形でアウトプットする場所が、ボクにとってのブログである。
だから、最近はPageViewだとかはてぶだとか検索流入だとかは一切気にすることもない。
これは見栄でも負け惜しみでもなく、本当の話だ。他者からの承認欲求を満たすための行為ではないのだよ。
そこが普通のブロガーさんたちと違う、とある一線を越えてしまったωブロガーという存在なのだと、自らに言い聞かせるように己の存在意義を見出そうとしている。
もちろん、このブログに対する他者の反応を一切拒絶するなどという器量の狭い宣言をここでするつもりもないが、こちらから積極的に双方向に交流を図ろうとする意図はあまり持ちあわせてはいないのは確かだ。
かと言って、誰にも目の触れない場所でそれを行おうとはしない。
そこが矛盾しており、その理由についてはまだ明確な回答を用意できていない。そこが詰めの甘いところと指摘されればグゥの音も出ない。
強いて無理矢理な理由をこじつけようとするならば、書いた自分の文章を気軽にどんな手段でもどこに居ても確認できる方法がブログだったということになるのかな?どうなんかな?
結局は、ないものねだり、未だ方向性を定めることのできぬ中途半端な存在がブロガーとしてのボク、ということなのではないだろうか。
ただ、今回のこの書き連ねた文章のように、自分という個の存在を確認するためには必要な場所であることは確かだ。
やはり、ここはボク自身にとっての聖域であり、ボク以外の何人たりとも似ていない、独自性の強いひろさのワールドを構築したいのだ。
そんな目的があったればこそ、他者にとっては何の意味も何の価値も見い出すことのできない「ブログを書く」という行為を、ただひたすら飽きもせずに継続出来ているのかもしれない。
結局、「ネットの世界で如何にして双方向のコニュニケーションを成立させるか?」という問題については、やはり各々の置かれた状況や立場などで、その方法論やアプローチは違ってくるということではないだろうか。
繋がることを望まない者もいるであろうし、繋がることを望むのであればSNS以外の他の手段を講じる者もいるであろう。
繋がりたいのかそうではないのか、どのような手段を用いるのか、いずれもそれぞれの人に委ねられた選択権であるのだから、「双方向のコニュニケーション」は必ずしも成立しなければならない命題ではないのかもしれない。
なんだか結論らしきものが見えないし、結局最後は卓袱台をひっくり返して終わりそうな気配が漂っているのだが、少なくとも自らの考えを多少は再確認することができたので、これはこれでヨシとしよう。
まぁ、ブログなんてのはそんなもんなんだよ。
ってなことで、今回はここまでっ!
(おわり)
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